逃げ恥とキリンジ「Drifter」と

 久しぶりにドラマを見ているけれど、逃げ恥がとてもいい。昔深夜アニメをリアルタイムで追っかけながら見ていたときのように、放送が終わったらすぐネットを覗いてみたりなんかしている。

 この間の星野源オールナイトニッポンでは「キリンジ特集」が組まれていた。軽く発狂しかけるくらい嬉しくて、私もキリンジしか聴かない期に入っている。けれどまあそれは置いといて、同じ回で逃げ恥7話の視聴者の反応として、「男として平匡のあの拒絶はイカン!」みたいなものが多かったことについて源さんは、「そういうふうに思ってしまうことは登場人物を苦しめている様々なレッテル貼りと同じで、みんないかにそれに縛られているか」というようなコメントをしていた。

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 で、現在逃げ恥8話までを見たわけですけれども、なんだかキリンジの「Drifter」の歌詞と呼応するような話のように思えた。

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 一行目の ”交わしたはずのない約束” というのは、上にあるようなみんなが持っているレッテルのことで、そのレッテルが内面化されている故にそれを自分で破り棄てることになんだか後ろめたさを感じてしまう。それは帰国子女であることをなかなか言えなかった柚や童貞を悟られたくなかった平匡たち登場人物の悩みを簡潔に表す部分だと思う。モチロン曲単体で見れば、全く違う解釈になるだろうけれど。

 また、”「お金がすべてだぜ」と言い切れたならきっと迷いも失せる” という部分は、金銭が介在する使用者と被用者という立場を理由にしてみくりへの思いを断ち切ろうとしていた平匡の姿と重なってくる。

 8話で酔っ払って風見と言い争い、暗い部屋で水を飲んで酔いを覚ましていた平匡もたぶん ”シラフな奴でいたい” 、なるべく波風を立てたりせず、悩みをお酒を紛らわせたりなんかしたくない人間なんだと思う。誓いは夜に、”ボトルの水飲んで” 、”シラフ” で、というのがこの曲にこめられたメッセージのようにも聞こえる。

 巷にはびこる愛の歌みたいにうまくはいかないけれど、”シラフな奴” になった平匡が ”ムーン・リヴァーを渡るようなステップで 踏み越えて行こう あなたと” なんていうような ”誓いをたてる” 日ももうすぐなのかもしれない。

 

余談

 身も蓋もないことを言えば、この「Drifter」を発表したあと、作った高樹氏自身が結婚しているそうなので、断片的に拾えばたぶんホントの意味で夫婦になっていく逃げ恥の物語と合うのも当たり前では?という話でもある。

 

キリンジ「水とテクノクラート」について

 昔のヨルタモリを見返していて思いついた。京急三崎口駅は今は終着駅であるが、計画ではそのさきの油壷まで伸ばすつもりで、線路もいまだ途中まで引いてあるという。これを高樹氏が見逃すはずはないのではと思った。

 キリンジ「水とテクノクラート」には

”赤いK急に乗って三崎へ”

というフレーズがある。ここで中途半端な終着駅である三崎口へ向かうのが”僕”であるというのはなんとも皮肉に聞こえてくる。自らの水源から流れる音楽はテクノクラート(タントウシャ?)に見守られ、ファルセットをいれてみたりハンドクラップをやってみたり。虹色の油は自分たちにとって良いのか悪いのか、”甘い不埒なメロディー””合間縫う腑に落ちないミュージック”になっていやしないか。なかなか完成に近づかない”肩透かしのカタストロフィ”を続ける不安は三崎へと行く”僕”のものではないだろうか。

 ただこういう風に自身の行先への不安が歌詞に表れているという捉え方をすると、その先にはどこかで決意や希望めいたものが見えてくるのがキリンジ流ではないかと思うが、いまいち掴みきれない。”ああ、水鳥飛び去ってく”のあたりに何かあるような気もしなくはないけれど。

 

もう、家に帰ろう

図書館で藤代冥砂さんの写真集「もう、家に帰ろう」を借りてきました。

妻でモデルの田辺あゆみさんを撮った写真集で、だいぶ有名なものなのですがなぜか見る機会がなく、今さらながらに借りてみたわけです。

美人の奥さんをフィルムで撮った写真とくればそれはいいものになるとは思いますが、なにかそれ以上のものを感じました。

「結果として記録に残るにしても 私があみを撮るのはそのためではない」

「時間を止めたくて写真を撮るわけではない むしろその逆だ」

という文章から、記録するため、後に残すために写真を撮っているわけではないことに気づきます。ではどこに価値をおいて写真を撮っているのかと考えると、結果物であるところのプリントされた写真ではなく、写真を撮るという行為そのものにあるのではないかと思います。

写真を撮るということは撮影者の主観的な視点を写真として他のひとにも見えるように表すというプロセスを含みます。その視点というものはレンズを向ける方向と同一なわけで、人にレンズを向けるということは撮影者の視点、結局のところは撮影者の意識がその人に向かっているということになります。つまり撮影者にとってレンズを向けるということは相手を意識しているということを伝える、あるいは表現しているわけです。

僕はこのことを一種の拙い愛情表現だと思います。この愛情表現に対し妻は自身のモデルという職業を否定することなく、ときにつくったように、ときに自然に表情を見せます。被写体となることを意識しつつも、自然体で日々を楽しんでいる様は撮影者の愛情表現に対する返答ではないかと思います。その不思議な距離感がこの写真集の魅力なのでしょう。

ポラロイドで写真を撮っている姿を撮った写真からは、撮影者が「レンズをこっちに向けてよ」と言っているのではないか、なんて思ったりします。

冬来たりなば

今日から冷え込むとテレビで言っていましたが、その通りずいぶんと寒くなってきました。冬が来たんだなという実感とともにこの曲を思い出します。

兄弟バンド「キリンジ」のお兄さんのほう、堀込高樹氏の「冬来たりなば」という曲は2005年の「Home Ground」というアルバムに入っているのですが、この曲の詩がとてもいいのです。

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歌詞にはアーモンド、ピスタチオ、落花生というような正月ののんびりとした風景とそれと混在するように何かつらいできごとがあったかのような寂しさが漂っています。もちろんタイトルは「冬来たりなば、春遠からじ」からきているのでしょうから、冬がよくない季節で春がよい季節となり、最後には「春よ来い」と歌われます。

 ところで、このよくないことのあとにはよいことがあるという構図。どこかで見たなあと思ったら、キリンジの「朝焼けは雨のきざし」という曲でも似たことが歌詞になっています。

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2008年にリリースされた高樹氏作のこの曲ではことわざ通りに朝焼けのあとは雨、夕焼けのあとは晴れと歌われます。雨はよくないこと、晴れはよいことを表していますが、この曲の主人公は朝焼けのあとは雨ということのみを否定し、運命にあらがおうとしています。

「冬来たりなば」で春よ来いと願うしかなかった主人公が、「朝焼けは雨のきざし」で運命にあらがおうとしているのであれば、それはそれは大きな一歩を踏み出したのだと思います。当然ながら、高樹氏の心境変化というものもあるのではというふうに思いますが。

 

"柊 刺った葉の先で心を守ってるの" (「冬来たりなば」より)

暖かに肯定されることで春が近づいていく気がしました。

鴨居玲展 踊り候え

金曜日に伊丹市立美術館へ鴨居玲展を見に行ってきました。

NHKのアートシーンでちらっと見てなんだか印象に残っていましたが、あまりよく知らずに行った次第です。

入ってみると若い人が多くて意外でした。「わしの赤とは違うなあ」なんて大きな声で奥さんか誰かと喋っているおじさんもいました。香ばしいかんじです。

初期のシュールレアリスムっぽいのもなかなか雰囲気があって良かった(特に、寂しさと皮肉がいいバランスの「赤い髪」)のですが、その後のスペイン時代に描かれた老人や教会の絵、帰国後の自画像の一群は惹き付けられるものが多かったです。

なかでも、「1982年 私」は胸が詰まるものがありました。この作品でこれまで描いたモチーフを自身のアトリエに集合させ、真っ白のキャンバスの前で呆然とする自身を描いた数年後に鴨居は自殺するのですが、昔のスペイン時代のように納得のいくモチーフを見つけられない画家の苦悩が感じられます。

自画像を描いたものの中に「宴のあと」という題名が付けられたものがありました。奇しくも同名の小説を描き、最後の作となった「豊穣の海」で総決算をして市ヶ谷へ向かう三島由紀夫の姿が、「1982年 私」でこれまでの創作を見つめ、死へと向かっていった鴨居の姿と重なるようでした。